理解することをほどほどにして、ある程度の所まできたら、感じることに集中すると
すんなりと受け入れることができるものです。
理論立てて納得しようとしても、無理なこともあるということは、以前ブログに書いたと思いますが
理論で納得できる領域は決まっていて、そこから先はつまり、腑に落とすには感覚しかないんですね。
そこの見極めは自分で出来ると思いますが、感じるだけというのは慣れないと、ふとした時に思考に走りがちです。
思考に走るのが悪いということではなくて、思考には限界があるということです。
限界があるというか、思考と感覚は違うので、思考で感覚を捉えるのはちょっと違うのかなと思うのです。その逆も然りですが…
そもそも、感覚という目に見えない物を信じて確認するのって、それを信じる自分に許可が出せないと無理な話なのですが、
信じない世界を信じてれば許可は出ないでしょうし、信じる世界を信じれば許可が出るのかなと。
どちらを自分の真実とするかは自分しか決められませんが、どちらのするにせよ、違和感を感じない方を選択すれば良いのかなと思います。
で、私は目に見えない感覚を信じる世界を真実としている訳なのですが、これまで目に見えるものしか信じて来なかった世界とは、ずいぶん違うなと感じていて
目に見えないからこそのあやふや感に感情が揺さぶられることもありつつ、感覚を意識するをしていると
目に映るもの全てが、自分なんじゃないかと思えるようになってくるんですね。
人に対する嫌悪感は、自分に感じている嫌悪感。
人を羨ましく思う気持ちは、自分もそうであると思っているのに認められないから。
特定の人に感じる束縛感は、見ると束縛を感じる人を選んでいる。
など、とにかく自分のやりたい放題なんですね。
全部自分の感じたい感情を感じるために、人を状況を、自分の都合に合わせて感じて見ているんです。
世の中の凄い人は自分だし、馬鹿にしているのも自分、スキル的に負けていると感じているのは自分自身にだし
結局、自分を認めていない、受け入れていないからなんですね。
自分は凄い、完璧、天才、面白い、最高
こんな風に、心底思えると、嫌悪感はなくなります。
このままの自分で良いと思えるから、何にも気になることがないんですね。
これも腑に落ちてからのことなので、感覚なんです。
世の中の仕組み、宇宙の法則が理解出来たら、「そうなんだ~」と感じることを続けてみてください。
理解するはある程度のところまで、あとは感覚です。