自分の本質とは、「あり方」だと思います。
あり方というのは、「どうありたいのか」。
本当の自分とか本性とかではなくて、どう生きて行きたいのか、何をしていきたいのかという感じのことです。
私が感じていた自分の本性といわれるものの見解は、どんな欲望を持っているのかといった感じのことなのですが、本性というと人にはあまり見せられない自分の黒い部分という感じがして、隠したい自分だったりしました。
「本質」というものの意味がわかった今は、隠したい自分の本性と思ってたものって、自己否定から生まれたエゴの自分だったことが見えてきました。
どんな自分であっても、何を欲している自分であっても、そこに意味を付ける必要はなくて、ただそうである自分を受け入れるだけで良かったんです。
そんな自分を受け入れられなかったのは、自己否定があったから。
自己否定も元を辿れば否定されたり、偏った概念を教えられたりして、正しい自分や悪い自分と分離する見方をされて、自分も他者をそういった概念で見てきたから。
正しくなければいけないという概念があると、正しくない自分になってしまった時に、目の前の人たちが受け入れてくれそうな自分になって、偽ってしまうんですね。
正しくない自分という意味づけをしている時点で、自分の本質から大きくズレているわけで、そこからさらに他者から受け入れられそうな自分になる意味づけをし始めると、どこの誰だかわからない人になってしまうので、それを見ている人の意識からすると違和感でしかないんです。
違和感が出てきたら、全く本質じゃないんです。
本質とは、エゴではなくて素直な欲望のままの自分です。
欲望というと悪い感じに聞こえてしまいますが、そうではなくて
自分が欲しているものをただ欲しいと言ってるだけなので、そこに悪くなるような意味づけをしてしまうのは、ただのエゴなんですね。
私的に理解している本質とは、エゴで方向を変えられていない素直な想いの自分のこと。
違和感に気づけば本質からズレてることに気づくのですが、最初はなかなか違和感に気づけないものです。
本質からズレてはいけないという話ではなくて、ズレた生き方に違和感を感じている人は、気づくステージに近づいてるんだと思います。
気づく気づかないに意味はないです。ただ自分が気づいたのか気づかないのか、それだけのことです。
気づかないのなら、気づく必要がないだけなんです。
こういう展開になった時に人は、どちらかが正しいという見方をしてしまいがちですが、そのようなジャッジは必要ないんです。
それが必要な人と必要でない人が居るだけのことなんです。
必要な人には必要な人の真実があります。
必要でない人には必要でない人の真実があります。
どちらもありなんですね。
だからこそ本質の自分とは、どうありたいかなんだと思うのです。